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■hot express--3月10日にアルバム『カンチガイもハナハダしい私の人生』をリリース。せっかくこういうタイトルなので、KANさんがどんな人生を実際には辿ってきたのかも知りたく。こういう質問をされるのは久しぶりだと思うんですが、KANさんが音楽に目覚めたきっかけって何だったんですか?KAN:ピアノを8年ぐらい習わされていたので、小学校高学年ぐらいで家にあったギターとかもなんとくなく弾けるようになって。そんな流れで普通にビートルズのコピーをやるようになったんです。で、1976年、ポール・マッカートニー&ウイングス『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』という3枚組のライブアルバムが出た頃に、NHK「ヤング・ミュージック・ショー」という番組でそのフィルムを流したんですね。それを観て「これだな!」って思ったのはよく憶えてます。自分で作った曲歌って、すごくデカイところで「うわぁぁぁ!」って言われて、更には大金持ちで。--(笑)。KAN:「俺もこれだ!」って思ったんです。で、その当時からピアノはもちろん、ギターも誰よりも早く触っていて、しかも高校のときはオリジナルも作っていたので、僕が音楽的に優れていることは誰もが認めていたことだったんです。だから夢とかじゃなく「俺はこれをやる」って当然のように思っていたんですね。でも大学で東京に来てバンドを組んで、1983年頃にヤマハの「イーストウエスト」っていうコンテストの地区予選に出るんですけど、同世代の十幾つものバンドを同時に観るんですよ。そこで初めてね、みんなすごく巧いし「俺は何でもないんだ」って気付く。それこそ“カンチガイもハナハダしい”感じだったんです(笑)。--最初のカンチガイ、出ましたね。KAN:まぁカンチガイと言うよりは世界が狭かったんですよね。福岡の、自分の周りだけでも物事を判断していた。でも大学も3年でしたし、留年も決まっていたりして「(音楽以外に)他に選択肢ねーし!」みたいな。--僕は勝手にKANさんのことを日本のビリー・ジョエルと呼ばせてもらってるんですが、ピアノマンになるきっかけは何だったんでしょう?KAN:高校生の頃からビリー・ジョエルが好きで、東京に来て1週目でビリー・ジョエルの武道館公演を観たんですよ。上京したその足でウドー音楽事務所に行って、チケット買って。で、そこでまた「俺のやるべきことはこれだ」って決めるんです。それで大学からバンドでピアノを弾くようになって。そのバンドは半年で辞めてしまうんですけど、高校のときの先輩が青学でフュージョンのバンドをやっていて「就職でボーカルが抜けるから入らないか」って誘われるんです。それで、ピアノボーカルで自分の曲をやるっていう前提で入って、前述のコンテストとかに出るようになって。--いつソロになったんですか?KAN:コンテストとか出るようになってレコードメーカーの人から「やる気ある?」みたいな話が来るようになって。僕のデビューすることに直接的に力を注いでくれた人にデモテープを作る度に聴いてもらうようになるんです。そこで「バンドでやりたいの?ソロでやりたいの?」って言われて「あのー……、自分はソロで」って(笑)。先輩たちに悪いなとは思っていたけど「このバンドでデビューしよう」っていう意識は持ってなかったので。--また、KANさんは世間のイメージでは『愛は勝つ』で早々にブレイクしたアーティストという印象もあると思うんですけど、結構下積み時代というか、不遇の時代も長かったんですよね?KAN:そうですね。『愛は勝つ』は5thアルバム『野球選手が夢だった』の収録曲ですから。僕はアマチュア時代に100曲ぐらい作っていて、それをどんどん出したいなと思っていたんですけど、それを当時所属してたレコード会社であるポリドールも賛同していた。だから最初の1年半で3枚アルバム出しているんですよ。で、1st『テレビの中に』はアレンジを全部自分ひとりでやったんですけど、それが辛くて、アレンジは僕がするんだけど面倒くさいことをやってくれる人がほしいと思ったんです。それで当時はまだ駆け出しだった松本晃彦くん、今は「踊る大捜査線」で作曲家として大ブレイクしている彼に、2nd、3rdにサポートとして入ってもらって。あと、歌詞に関してはアマチュア時代から「歌詞を書く」なんていう意識が無かったもんですから、ほとんどの歌詞をなんとなく作家の人に頼んでいたんですけど、ライブで歌っていく内に違和感を覚えるんです。全然俺と関係ない歌詞を歌うことに。それで「下手でもいいから自分で書いた方がいい」と思うようになって、 3rd『GIRL TO LOVE』で10曲中8曲書いて、4th『HAPPY TITLE -幸福選手権-』でやっと詞曲を全部自分で書くようになった。--なるほど。KAN:でもそうやっていろいろ変化はあったんですけど「これって誰か気付いてるのかな?」っていう感じだったので、実は3rdで1回凹んじゃってるんです。で、4thはいろんなアレンジャーを入れたんですね。僕を入れて5人で2曲ずつアレンジをやったんです。それにより何かが変わるかなと思ったんですが、ビジネス的状況は一切変わらず(笑)。で、5thから小林信吾さんに僕のアレンジを良くしてもらう、というスタイルにしたんですね。--それがヒットに繋がっていくんですね。ただ『愛は勝つ』が売れたら売れたで今度はどこへ行っても『愛は勝つ』を求められる辛さがあったと思うんですが、そこは実際のところどうだったんでしょう?KAN:実際のところは、僕も自分がどうしていいか分かんなかったし、周りもそうだったと思います。僕自身はどうしていいか分からないまま、とにかく大変なスケジュールで、Wink並のスケジュールで(笑)。温泉に逃げたい人の気持ちがよく分かるぐらい、ひとつひとつモノを考えられないんですよ。スタッフも含め、こっちサイドでコントロールすることが出来なかったから、とりあえず来た話は全部受けるみたいなことになっていたんでしょうね。だから91,2年はレコーディングとコンサートのことはよく憶えていますけど、それ以外のことは刻まれていない。刻む前にどんどんどんどん通り過ぎていきましたからね。--また『愛は勝つ』の大ヒット前後から海外へよく足を運ばれるようになりましたよね。これはその状況から回避したいところもあったんですか?KAN:今は日本もこの業界も「休むっていうことは良いことだ」っていう風にちゃんとなっていますけど、当時は「休むっていうことは悪いことだ」ってみんな思っていたんですよ。それこそアップフロントエージェンシーも自転車操業みたいな状態でやっていたので「1週間休む」って言ったら、かなり嫌な空気になっていました。でも自分の為に休まないとよくないと思っていたから、多少反感を買おうがもぎ取る。頑張って休みを取る。そういう風に思うようになってから、海外へもよく行くようになりました。それまではコソコソ行っていたので、3日間だけ北京で旅行したら、その数日後に「先々週、北京線でお会いしましたね」ってスタッフの前でスチュワーデスさんに言われたりしちゃって「行かれたんですか?」「どうやらそうらしいですよ」みたいな。--(笑)。ちなみに「毎年1言語を学習し10年後には10ヶ国語カタコト」という目標を掲げたこともあったそうですが、その目標は達成できたんですか?KAN:全然。僕はデビューする頃に大林宣彦監督の映画のお仕事をさせて頂いたんですね。それで大林監督が尾道出身じゃないですか。で、尾道と中国の大連の友港博覧会で使うショートフィルムを大林監督が撮るのに「KANくん、ぜひ音楽やってください」ってお願いされたんです。でも自分は「中国と言ってもブルース・リーしか思い付かない。もしよろしければ連れて行ってください」と言って初めて外国に行かせてもらって。で、ひとりで旅行に行ったのは90年の北京が初めてなんですけど、そのときにビール1本も頼めない訳。言葉が分からないから。それで悔しい想いをしたから勉強をしたら、すごく旅行が楽しくなって。「よし、次はイタリア語だ」みたいなノリになっていくんですよ。それで「毎年1 言語を学習し10年後には10ヶ国語カタコト」という目標を掲げるんですけど、憶えたのは北京語、イタリア語、フランス語ぐらいですかね。フランス語はもう忘れつつあるけど。一番長く居たのに。--2002年にそのフランスに移住されています。今作でも『オー・ルヴォワール・パリ』という曲でフランスへの想いを歌われていますが、元々思い入れの強い国ではあったんですか?KAN:はい。昔から憧れていた国だったので。ただ、移住した理由は単純に“逃亡”です。90年代の“毎年アルバムを出すのがあたりまえ”みたいなサイクルがあって「そんなの、堪ったもんじゃねぇ。絶対、俺には無理だ」と思って。アルバム作って、ツアーやったら「はい、次のアルバム」みたいな状況で「みんな聴いてるのかな?ちゃんと」って思ったんですよね。どんどん作品が消費される感じがすごく嫌だった。で、その流れに乗っかり続ける自信はなかったので、会社にも「逃げたい」と伝えて。それを認めてくれる環境があったので休ませてもらったんですね。--パリから日本に帰国し、大阪城ホールでアクト・アゲインスト・エイズのチャリティコンサートに単独出演。「それまでの人生でこれほど緊張した演奏は記憶にない」なんて話がプロフィールにもあったりしますが、その日のことは今でもよく憶えていますか?KAN:FM802がやっているイベントで、90年代に何度も出させて頂いているんですけど、そこでひとり弾き語りでやってみないかと。丸3年人前でやっていなかったですから、それで大阪城ホールでひとりでやるなんて出来る訳ないと思ったんですけど「お、KANちゃん帰ってきた!」っていうことですぐ呼んでくれるのはすごく有り難いじゃないですか。サボっていた人なのに。それでどうなるか分からないけど出るしかないと思って。でも本当にあのときは、ちょっと恥ずかしいけど、あんなに緊張したことはなかったですね。終わった後によく知っている人たちに「こっちが胃が痛くなったわ」って言われるぐらい(笑)緊張してた。--パリに住んでいた前後では音楽への取り組み方も変化していますか?KAN:変わったというか、取り戻した感じがしますね。いろんな意味で麻痺していたと思うんです。とにかく「作りたい」より「作らなきゃいけない」が先行している90年代があって。「こういうの、やりたい」っていうよりも「やんなきゃいけないから、何やろうか」っていう感じになっていたのもあるし。あと、この世界に居ると、CDとかも自分で買わなくてもどんどん山積みになったりするじゃないですか。だからCDを1枚聴く価値観とかも薄れてきたりしていて。そういうのも全部含めて、逃げなきゃいけなかったんだと思いますけどね。それでパリに行ってからは、それまであんまり見聞きしなかったモノに出来るだけ触れるようになって。オペラとかバレエとかクラシックばっかり観て。で、ピアノの学校にも行って基礎からまたやり出したんですけど、そこで「クラシックは本当に大変だ」と思ったんです。基本、音符変えちゃいけない。他の演奏者も同じ音符を弾く。その上で間違えないなんていうのは最低限の話で、そこで同じ音符を弾きながら表現力で競う訳じゃないですか。「とんでもない、俺には一生かかっても無理だな」って思ったし、同時に「好きなようにやっていい、ロック/ポップスで良かったなぁ」って思いました。--なるほど。KAN:で、2004年7月に日本に帰ってきたんですけど、その直前にフランスのでっかいサッカー場でポール・マッカートニーのコンサートを観たんです。あれは嬉しかったですね。すっごい久しぶりに観たロックコンサートが自分の一番好きなポール・マッカートニーですからね。無条件に「バンザーイ」って思えるような感じ。で、帰ってきましたから、自分のやりたいことはいっぱいあるし、ロック/ポップスをやっていることが「めちゃくちゃ楽しい!」って思えますし、ピアノの学校に行ったことで自分のレベルもハッキリ分かって(笑)ピアノを弾くことにすごく謙虚になりましたし。そういうことも含めて、すごくすっごく良かったと思います。逃げて。--今回のアルバムを聴いてても、KANさんがまず音楽をとことん楽しんでいるグルーヴは伝わってくるんですが、キャリアを積んだ分だけそうした作品が作れるのは理想的ですよね?KAN:毎回いろんなタイプの曲をやったり、いろんなジャンルに踏み込んでアルバムは作っているんですけど、今回はたまたまそれが極端に出たんです。前からなんとなくやりたいと思っていたビッグバンドジャズもようやく形に出来ましたし、フランス帰りならではのシャンソンも完成させることが出来たし。あと、新しいところではPerfume的な曲もサウンドも作りましたしね。更には ASKAさんが参加してくれたことで、極端に広く深くなったと思います。アルバムを作る上でのやり方とかは根本的には変わってないですけれども、結果的にかなり面白いモノが出来たなとは思います。--ちなみに『REGIKOSTAR ~レジ子スターの刺激~』はいろんな意味でいろんな人たちへ衝撃を与えると思います。どうして今回、こんなにもお茶目なことをやってやろうと思ったんでしょう?KAN:ここ2年ぐらいはPerfumeが大好きで。何て言ったって音楽が凄いですね。完成度が高いし。で、シングルになっているモノはちゃんと詞曲が良いし。聴いてても観ていてもすごく楽しいし、もう大ファンなんですよ。だから当然「Perfumeみたいな曲を作りたい」と思う訳ですよ。過去にも、ビリー・ジョエルやビートルズやスティーヴィー・ワンダーの「ああいう曲作りたい、あんな感じのやつをやりたい」と思ってそういう曲を作ってきましたし。邦楽のアーティストで言うと、槇原(敬之)くんや浜田省吾さん的なアプローチもやりましたし。今回もそれと同じ感じで「ひとりPerfumeをやりたい」と。で、僕は80年代のイギリスのポップなユーロビート、リック・アストリーとか初期のカイリー・ミノーグとかバナナラマとか、あのタイプの曲って大好きなんですよ。だからそもそも曲的にPerfumeが好きになるのも、形にするのも必然的だったんですけど、最新の音を作ること、シンセとかに関しては疎いので『REGIKOSTAR ~レジ子スターの刺激~』のサウンドは涌井啓一くんが作ってくれているんです。フレーズ自体は僕が作ってるんですけどね。--その曲を1曲目に置こうと思ったのは?KAN:途中に入れると企画モノだと思われるから。それは嫌なので。本当に好きでやってますからね。だから1曲目にしました。--で、その後が約6分半ビッグバンドジャズナンバーじゃないですか。どれだけ自由なんだ?と思いましたよ。KAN:それこそ50年ぐらい昔の音が出てくる訳ですからね。僕もこの流れは気に入ってます。--ビッグバンドジャズには前から挑戦したいと思っていたんですか?KAN:ハリー・コニックJr.を聴いて「こういうのやりたいなぁ」っていう想いが漠然とあったんですけど、日本に帰ってきた頃から具体的に「ビッグバンドジャズをやりたいな」って。で、この『小学3年生』はアレンジが今までの中でダントツに時間が掛かりました。自分の中で全体のフレーズは鳴ってるんですよ。でもジャズをちゃんとやったことがないから「音の積み方をどうすればそれっぽくなるのか」っていうところで苦労しました。ひとつひとつ打ち込んでデータ作って鳴らしてみて「そうじゃないよなぁ、何でだろうなぁ?」なんて言いながら、いろんなCDを聴いたりして。研究をしながら作っていったので、すごく時間が掛かりましたね。でもこれは「絶対に生でやらないとダメだ」と思っていたので。--そこに拘る故の苦労をした訳ですね。KAN:そうですね。で、12月の半ばにASKAさんが【昭和が見ていたクリスマス】っていうビッグバンドのコンサートをやったんですよ。それを東京国際フォーラムの2階席の一番前で観せて頂いたんですけど、そこでブラスのセクションとかストリングスとか見てて「あ、そういうコンビネーションでやるんだ」とか、アレンジをどうやっていくとそうなるのか、立体的に分かって。すごくラッキーでしたね。だからあのコンサートを観てる、観てないじゃ全然違ったと思います。--また、そのASKAさんが参加した曲『予定どおりに偶然に』なんですが、この夢の共演はどのような経緯から実現に至ったんでしょうか?KAN:僕は91年からASKAさんのファンになったんです。それまでは「洋楽は格好良い、邦楽はダサイ」って思っていて。僕の世代ではそういう人が多かったんですけど、僕も洋楽しか聴いてなかったんです。でもASKAさんの『はじまりはいつも雨』っていう曲を、CMでほんの15秒聴いただけで、何故かゴーン!と胸に響いてきたんです。その頃にたまたまASKAさんと下北沢の飲み屋で遭遇して、挨拶したりして。それからASKAさんのファンになって、当然ながらCHAGE and ASKAも聴くようになって、コンサートを観させて頂き、ASKAさんも僕のライブを見に来てくれたりとか、そういう繋がりがありまして。で、ビリー・ジョエルやビートルズやスティーヴィー・ワンダーと同じように「ASKAさんみたいな曲を作ろう」と思って作った曲もあるし、「これ、CHAGE and ASKAが歌ったら面白いだろうな」って思いながらアレンジしていった曲もありますし。で、今回もなんとなく「ASKAさんみたいな曲を作ろう」と思っていたんですけど、そんなときにASKAさんがソロツアーの最終公演を台北でやるっていうのを聞いて伺わせてもらったんです。お酒も飲ましてもらって。それで帰ってきたときに「A SKAさんみたいな曲を作ろう」とか言っていないで「一緒に1曲やってくれませんか?」ってダメ元で頼んでみようと思って。そしたら快諾してくれて。--紙資料にも「23年の芸能生活で、ついに私は本気を出してしまいました」と記していますが。KAN:だって僕のアルバムに大先輩のASKAさんに入ってもらう訳ですし、それはもうASKAさんに「すごく面白いの、出来たね」って思ってほしいですし。とにかく誰に対しても「うわっ!すげぇ!」って思われないとダメだと思いましたしね。もちろんそれはASKAさんのファンのみなさんに対しても。今って“コラボ”って言葉がすごく軽く聞こえたりしているから、その流れに乗ってやっているとは絶対に思われたくなかったんですよね。だから自分ひとりの曲に向かっているのとは、全く別次元の責任感がありました。遂に本気出しちゃいました。--仕上がりを聴いたときは自分でも感動しましたか?KAN:実際に歌を録っているときはね、ハモる部分は一緒に録ったんですよ。どちらかが先に録ると、後から録る人は合わせるようになっちゃうじゃないですか。それは違うと思って、音が被ってもいいから一緒に録ることにしたんです。そのときは感動したというかね、なんか、凄いもんを見ちゃいましたね。 ASKAさんの歌が凄いことはCDでもコンサートでも当然知っているつもりだったんですけど、音が反響しない空間での、生の歌を聴いて「う~わぁぁぁぁ!」ってなりました。しかも「ASKAさんが歌ってこうなったら堪んねぇだろうな」って思って作ったフレーズをそこで歌ってくれている訳ですから、感動なんていう次元じゃないですよ。ASKAさんも「どう?」って聞いてきたんですけど「めちゃくちゃ嬉しいです!ありがとうございます!」としか言えない感じでしたね。--3月13日からは【芸能生活23周年記念逆特別 BAND LIVE TOUR 2010【ルックスだけでひっぱって】】が開催されます。これもまた凄いタイトルですが。KAN:当然のタイトルですよね。残念ながら(笑)。--どんな内容のツアーになりそうですか?KAN:毎年そうですけど「ニューアルバム出たから、それを引っ提げてのツアーです」みたいなことはあんまりやったことなくて。アルバムとコンサートは全然別で考えているんですよ。もちろん新作が出ればそれを優先的に選曲しますが、そのアルバムの発表会という認識は全然持っていないですね。やりたいことはいっぱいありますし。あと、今年に限らず、毎年思っているのは、僕のことを全然知らない、辛うじて『愛は勝つ』は知っているけど……ぐらいの人がお友達に無理矢理連れて来られたとしたら、その人たちにとっては全曲ほぼ新曲になる訳ですよね。だとしても「何か知らないけど、めちゃくちゃ面白かったよね」って思ってほしい。それと同時に毎年必ずコンサートを観てくれている皆さんにも「今年はこう来たか!やっぱりこの人は違うね」って思ってほしい、という基本姿勢が変わらずあるんです。だから今年もそこを目指したいと思っています。それとライブに関してはずっと同じバンドメンバーでやってきているので、バンドとしての凄さを見せたい。バンドで活動しているミュージシャンに「俺たち、ヤバイじゃん」って思わせたいですね。
デノミ混乱で北の責任者銃殺~韓国メディア デノミ混乱で北の責任者銃殺~韓国メディア (3/18 21:34 日テレNEWS24) 写真を見る 北朝鮮が去年11月に行ったデノミネーション(通貨の切り下げ)が物価の高騰などの混乱を招いたことについて、韓国の聯合ニュースは「責任者が銃殺された」と伝えた。 聯合ニュースが北朝鮮に詳しい複数の消息筋の話として伝えたところによると、処刑されたのは労働党・朴南基前計画財政部長。「計画的に国家経済に打撃を与えた反革命分子」として、平壌で先週、銃殺刑に処されたという。 北朝鮮では、デノミが物価の急激な高騰や混乱を招き、住民の不満が高まっていて、朴前部長はデノミ失敗の責任を負わされたとみられる。朴前部長は1月初めまで、金正日総書記の視察に同行するなどの動静が伝えられていたが、その後、解任されたことがわかっていた。 (日テレNEWS24) 海外 【引用終わり】この朴南基という人はキムブタに何らかの反抗をして、もしくはキムブタから不評を買うことをして政治犯として逮捕されて、デノミによる経済混乱の罪を被せられたのでしょう。つまりデノミ失敗をする罪を被せる都合のいい人間としてこの朴を選定したのでしょう。そうでなくば北朝鮮が何かをするときはキムブタの承認なしでするとは考えにくいし、まさか朴南基がキムブタの承認なしで勝手にデノミなんて国の経済に関わる一大イベントを敢行したなんてことはないでしょう。キムブタは銃殺されないんですかね?
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